『信心』と聞くと皆様は何を連想するでしょうか?日常的に宗教に関わることがにない方であれば「洗脳…?」だったり「怖い…」といった印象があるかもしれません。意味を調べてみると【神仏を信仰する心。神や仏を信じて祈ること】と出てきますが、これだけ聞くと中々関わりのないように感じます。私たち浄土真宗はこの『信心』をとても大切にしております。ですが、よく考えてみると『信心』は宗教に関係がない方でも、とっても身近なものなのです。
信心は文字通り「信じる心」と書き、また「信じる」とは自分と対象があって初めて成立するものです。例えばコンビニで100円のおにぎりを買う時に、1000円を出すとおつりで900円が返ってきます。一般的にこの状況の際1000円を出した時に「絶対900円返してくれよ!頼む!お願いします!絶対返して!」と思う人はいません。それは自分の人生の経験と世間の常識から、100円の物を買う時に1000円を出したら900円のおつりが返ってくるという目に見えないルールを知っているからです。この『当たり前』が大切です。物体に限らず、酸素や二酸化炭素も同じで、酸素があることを日常的に疑い出したら頭がおかしくなってしまいます。酸素という対象に対して、自分が何の疑いもなく生活することも科学に対する一つの信心です。また幼少期の自分を思い返してみても、父から「来週キャンプに行こう」と言われた時は、当日まで何の疑いもなくワクワクしていました。それも一つの【約束】に対する信心だったと思います。
信心とは、自分が信じよう!信じよう!と思うことではなく、自分と目に見えない対象や事象との関係が、既に生活の一部になっていることだと思います。【神仏を信仰すること。神や仏を信じて祈ること】と聞くと関係がないように感じてしまうかもしれません。ですが皆様の大切なご家族がお亡くなりになった時、またその後お墓参りをした際に『ありがとう』『がんばるよ』『見守っていてね』と心の底からの想い伝えることは紛れもない『信心』だと私は思っております。